明治時代の江戸三
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由来と歴史

屋号の由来


  当家の祖先は元々、奈良(現在の天理付近)におりましたが、
  大阪で商売を始めるため、江戸時代(文化・文政)に上方にのぼり、
  ざこばと言われる現在の魚市場のような所で、いろいろな商売を
  していたようです。
  その場所が大阪西区にあります「江戸堀三丁目」でございまして、
  その地名から「江戸三」という屋号になりました。

  

大正時代の江戸三 大正時代の江戸三


当館の由来


  明治40年4月3日、奈良公園の離れで料亭として営業を始め、
  奈良公園を訪れたお客様にお料理をお出ししておりました。

  また文人・墨客が数ヶ月、1年と離れに逗留されました。
  その中には文壇にデビューする直前の小林秀雄や、堂本印象など
  たくさんの方がおられました。
  奈良で映画の撮影があるたびにお越し頂いた片岡千恵蔵や
  徳川夢声、大辻司郎など芸能関係の方も多かったそうです。

  大正時代には離れの一つを使って、カブトビールのビヤホール
  などもしておりました。

  旅館を始めたのは戦後のことでございます。

  カブトビールのビヤホール

  カブトビールのビヤホール

客室の名前


  客室名の多くが「太鼓」「銅鑼」「魚鼓」という楽器名になっているのは、
  電話がなかった当時、鳴り物(楽器)を鳴らして客室係を呼んでいた
  名残でございます。

  どの客室がお呼びかが分かるように、客室ごとに違う鳴り物を使っており、
  それがそのまま現在の客室名になりました。

  現在は電話がございますが、その鳴り物は今でもお部屋においております。


太鼓 銅鑼


文人・墨客

  創業当時より志賀直哉、小林秀雄、藤田嗣治、小出楢重に代表される、
  実に多くの文人・墨客が訪れました。

  その当時、奈良の高畑周辺は多くの文人・墨客が居を構え、
  当館もさながら、近代文壇・画壇交流の場となっておりました。
  その様子は、多くの小説・随筆・絵画となり、現在に残っております。

  大正・昭和初期に、その建物はさらに意匠を凝らし、
  現在は料理旅館として多くの方に ご利用頂いております。


志賀直哉が好んだ影向

    [志賀直哉が好んだ影向の間]
      志賀直哉が使用していた丸机を出して撮影しました